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セガ創業者デビッド・ローゼン氏逝去 ― 「25セント」戦略と業界への功績

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セガ共同創業者デビッド・ローゼン氏が12月25日、95歳で逝去。「ペリスコープ」による「25セントプレイ」の確立など、戦後アミューズメント史に革命をもたらした功績は計り知れない。MBOによる独立や家庭用市場への進出など、常に時代の先を見据えた稀代の経営者の足跡と、現代に通じる革新的な経営哲学を紐解く。

ビデオゲーム産業の黎明期を支え、世界的エンターテインメント企業「セガ」の礎を築いた巨星が、静かにその生涯を閉じました。

セガ・エンタープライゼス(現:セガ)共同創業者であるデビッド・ローゼン氏が、2025年12月25日(木)、ロサンゼルス・ハリウッドヒルズの自宅にて逝去しました。享年95歳。広報担当のブラッド・キャラウェイ氏によると、氏は家族に見守られながら安らかに息を引き取ったとのことです。葬儀は1月2日、イングルウッド公園墓地にて執り行われました。

駐留米兵から実業家へ:セガ誕生前夜

ニューヨーク出身のローゼン氏は、1948年から1952年まで米空軍に所属し、朝鮮戦争時には日本を含む極東地域に駐留していました。退役後も日本に留まることを決意し、1954年に「ローゼン・エンタープライゼス」を設立。当初は証明写真機(フォトブース)の運営や美術品の取り扱いを手掛けていました。

しかし、ローゼン氏は当時の日本における可処分所得の増加と、人々が娯楽に飢えている状況を敏感に察知します。そこで事業の軸足を、北米からのコインオペレーション(コイン・オップ)機器の輸入へと大胆に転換しました。当時、アミューズメント機器の輸入には200%もの関税が課されていましたが、後に氏が「リターンは通常2ヶ月未満で得られた」と語った通り、その爆発的な収益性はリスクを補って余りあるものでした。その読み通り、同社のマシンを設置したアーケードは日本全土へと広がっていきました。

運命の合併と「SEGA」ブランドの確立

1960年代に入ると、ローゼン氏の成功は競合他社の注目を集めました。その中の一社が、マーティ・ブロムリー氏ら米国人がハワイで創業した「サービスゲームス(Service Games)」をルーツに持ち、日本でジュークボックス運営などを手がけていた「日本娯楽物産」でした。

1965年、ローゼン氏は同社との合併を決断します。この合併こそが、現在の「セガ」ブランドを決定づける転換点となりました。新社名は、日本娯楽物産のブランド「Service Games」の略称「SEGA」と、ローゼン・エンタープライゼスの「Enterprises」を組み合わせ、「セガ・エンタープライゼス(Sega Enterprises, Ltd.)」と命名。ローゼン氏は会長兼CEOに就任し、セガは新たなステージへと歩み出します。

翌1967年には日本アミューズメント協会の設立に携わり、会長に選出されました。業界団体の組織化においても、氏のリーダーシップは遺憾なく発揮されたのです。

「ペリスコープ」と「25セント」の価格革命

ローゼン氏の経営手腕がいかんなく発揮されたのは、1966年に開発されたセガ初のオリジナルゲーム「ペリスコープ(Periscope)」における販売戦略でした。

当時の米国アミューズメント業界は「1プレイ10セント」という長年の慣習に縛られ、インフレ下でも価格転嫁できずに停滞していました。しかし、潜望鏡で敵艦を狙うこの大型筐体は、その圧倒的な臨場感と品質で既存製品を凌駕していました。ローゼン氏は周囲の懐疑的な声を押し切り、1967年の米国市場投入に際して前例のない「1プレイ25セント(クォーター・プレイ)」という価格設定を断行します。

「高品質な体験には相応の対価が支払われるべきだ」という信念は、見事に証明されました。「ペリスコープ」は驚異的な収益を上げ、業界全体の収益構造を「クォーター・プレイ」へと引き上げる起爆剤となったのです。単なるゲーム開発に留まらず、オペレーター(店舗運営者)の利益最大化とビジネスモデル変革を常に意識した、稀有な経営者としての姿がそこにありました。

独立への道と家庭用市場への挑戦

1969年、成長を続けるセガは米国の巨大コングロマリット、ガルフ&ウエスタン(Gulf+Western Industries)に買収されます。それでもローゼン氏はセガ部門のCEOとして留任し、引き続き経営の舵を取りました。

しかし1970年代後半、セガは「スペースインベーダー」ブームに乗り遅れ、経営の立て直しを迫られます。この局面でローゼン氏が白羽の矢を立てたのが、ゲーム機器商社「エスコ貿易」の創業者、中山隼雄氏でした。

1968年にエスコ貿易を設立した中山氏は、業務用ゲーム機の輸入販売で急成長を遂げた敏腕経営者です。任天堂製筐体の大口仕入れなどの大胆な手法で信頼を築き、英語に堪能で国際感覚も兼ね備えた同氏は、まさにセガが求める人材でした。

1979年、セガはエスコ貿易を吸収合併し、中山氏を副社長に迎えます。非常勤のローゼン社長に代わり、中山氏が事実上のトップとして経営再建に着手。この人事は奏功し、セガはヒット作を連発して復活を遂げました。

大きな転機は1983年、ガルフ&ウエスタン創業者チャールズ・ブルホーン氏の死去に伴う資産売却の動きでした。中山氏は、家族ぐるみの付き合いがあったCSK創業者・大川功氏に相談を持ちかけます。1984年、ローゼン氏、中山氏、大川氏の3者は約90億円でのマネジメント・バイアウト(MBO)を敢行し、日本資産を買い戻しました。同年7月、中山氏が社長に就任。こうしてセガは、純粋な日本企業として新たなスタートを切ることになります。

その後、米国に拠点を移したローゼン氏は「セガ・オブ・アメリカ」を設立し、会長(後に共同会長)に就任。アーケード業界のノウハウを家庭用市場へ持ち込みます。ジェネシス(メガドライブ)の立ち上げや、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」を擁した任天堂とのシェア争いにおいて、その指導力は不可欠でした。氏はセガサターンに至るまで、主要な家庭用ゲーム機の展開を支え続けました。

先見の明:ローゼン氏が遺した予言

ローゼン氏は1980年代初頭、早くもビデオゲーム市場の「成熟」と「飽和」を予見していました。業界誌や講演を通じ、「ブーム&バスト(急成長と崩壊)」を繰り返す業界構造に対し、絶えず警鐘を鳴らし続けたのです。

特筆すべきは、「コンバート・ア・ゲーム(Convert-A-Game)」構想の提唱です。これは筐体を買い替えることなく、内部基板やキットの交換のみで安価に新作を導入できるシステムで、オペレーターの投資負担軽減を目的としていました。1981年の代理店会議で、ローゼン氏は市場成熟期におけるこのシステムの経済的必然性を力説しましたが、当時の反応は懐疑的なものでした。

また氏は、ビデオゲームをテレビや映画のような「受動的」娯楽とは異なる「能動的エンターテインメント」と定義し、消費者(コンシューマー)へ向けた直接的なマーケティングの重要性をいち早く説きました。1981年の講演では、コインオペレーション産業の収益が映画や音楽産業を上回る50億ドル規模に達したことを指摘し、主要なエンターテインメント産業としての地位確立を訴えました。

プレイヤーを3つのタイプに分類する独自の視点も持っていました。宇宙系アクションを好む「マッチョ・プレイヤー」、高度な技術を求める「ハイスキル・プレイヤー」、そして軽快な娯楽として楽しむ「カートゥーン・プレイヤー」です。この分類は、当時から多様化する顧客層を深く理解していたことの証左といえます。

さらに、メーカーは単なる機器供給者ではなく、「消費者エンターテインメント・マーケティング企業」へ進化すべきだと提唱しました。テレビ・ラジオ広告による直接訴求や全国規模のプロモーション、そして業界イメージの確立こそが長期的成功に不可欠だと説いたのです。これらの視点は、現代のプラットフォームビジネスやダウンロードコンテンツの概念にも通じる、極めて鋭い先見性でした。

業界に残した不滅の遺産

ローゼン氏は1996年7月、セガ・オブ・アメリカ共同会長およびセガ・オブ・ジャパン取締役を退任し、引退。その後はロサンゼルスで晩年を過ごしました。しかし、その功績が色褪せることはありません。米国アミューズメントマシン協会(AAMA)での殿堂入りや、ラスベガスで「マン・オブ・ザ・イヤー」として称えられた事実は、業界における氏の不動の地位を物語っています。

デビッド・ローゼン氏は、単なる「ゲーム会社の創業者」に留まりません。戦後の日米関係の中に商機を見出し、技術と娯楽を融合させ、それを持続可能なビジネスモデルへと昇華させたイノベーターでした。価格戦略の変革、基板交換システムの提案、そして消費者マーケティングの重要性の提唱に至るまで、その視点は常に時代を先取りしていました。

アーケードの熱狂から家庭用ゲーム機の隆盛まで、私たちが享受するゲーム文化の根底には、常に氏の大胆な決断と静かな情熱があったのです。

偉大なる先駆者のご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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情報元:RePlay MagazineThe History of How We Play

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