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マーク・サーニー激白「ソニック」開発の過酷な実態と中裕司氏退社の真相

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PS5リードアーキテクト、マーク・サーニー氏が明かすセガ在籍時の衝撃の真実。中裕司氏が年収3万ドルで退社した理由、中山隼雄社長による「容赦ない」労働環境とは。続編「ソニック2」と「ソニックCD」開発を分けた日米の思惑など、当時の業界背景を詳細に紐解きます。

PlayStation 4および5のリードシステムアーキテクトとして知られるマーク・サーニー氏。アタリ社でキャリアをスタートさせ、その後セガ・エンタープライゼス(当時)に移籍した彼が、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」開発にまつわる衝撃的な裏話を明かしました。サイモン・パーキン氏が司会を務めるポッドキャスト番組「My Perfect Console」で語ったのは、セガの看板タイトル誕生の経緯、そしてその成功の裏で主要クリエイターであった中裕司氏がなぜ退社を選択したのかという、当時の社内情勢です。

「質より量」から「ミリオンセラー」へ

1980年代後半から90年代初頭、セガは任天堂との激しいシェア争い、いわゆる「コンソール・ウォー」の渦中にありました。当時のセガの戦略は「質より量」。短期間かつ低予算で大量のタイトルを市場へ投入し、数の論理で競合に対抗しようとしていたのです。

しかし、中山隼雄社長(当時)の鶴の一声により、その方針は一変します。

「ミリオンセラー・プロジェクト」

マスコットキャラクターの創出以上に課されたのは、「確実に100万本以上売れるゲームを作る」というプレッシャーでした。この号令のもとリソースの集中投下が決定され、「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が誕生します。

サーニー氏はインタビューで、「『ソニック』の開発は社内で激しい物議を醸していた」と振り返っています。

当時、ゲーム開発は「3人で3ヶ月」という規模が一般的でした。しかし「ソニック」は当初から3人で10ヶ月を要する計画であり、最終的には4.5人(サポート含む)の人員と14ヶ月もの期間が費やされました。サーニー氏は「記憶があいまい」と前置きしつつも、当時の常識からすれば異例の長期プロジェクトだったことは間違いありません。

大幅な予算とスケジュールの超過は、必然的に社内、特に経営陣との間に大きな摩擦を生むことになりました。

称賛なき成功と中裕司氏の退社

「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」は発売直後から批評・興行の両面で大成功を収め、セガを北米市場のトップ企業へと押し上げました。しかし、その立役者であるメインプログラマー、中裕司氏を待っていたのは称賛ではなく、厳しい叱責でした。

サーニー氏は、中氏が退社に至った理由を具体的な数字とともに明かしています。

当時の中氏の年収は約3万ドル(当時のレートで300万〜400万円程度)。社長賞などのボーナスを含めても、せいぜい倍になる程度でした。業界トップクラスのクリエイターが、最高でも年収6万ドル程度に留まり、あまつさえ予算超過で叱責され続けていたのです。「彼が『もううんざりだ』と感じて退社したのも無理はない」とサーニー氏は振り返ります。

この出来事は、その後のシリーズ展開に決定的な影響を与えました。待遇に不満を持った中氏は、一度はセガを退社してしまいます。そこで手を差し伸べたのが、米国の開発拠点「セガ・テクニカル・インスティチュート(STI)」を設立していたサーニー氏でした。彼の勧誘により、中氏はより良い待遇でSTIに「再入社」し、続編の開発に参加することになったのです。安原広和氏の渡米も既に決まっており、日本での開発継続は事実上不可能な状況でした。

なぜ「ソニック2」は米国開発なのか

興味深いことに、サーニー氏によれば、当時は誰も初代「ソニック」の成功規模を予測できていなかったといいます。彼が続編の制作体制を整えた際も、セガ・オブ・アメリカ(SOA)の反応は極めて鈍いものでした。

SOAは「続編は時期尚早だ。まずは別のゲームを作り、『ソニック』に戻るのは1、2年後でいい」と主張しました。これはSOAに限った話ではなく、東京本社を含め、誰も「ソニック」がいかに巨大な成功を収めるか理解していなかったのです。

状況が一変したのは、クリスマス商戦での爆発的なセールスを目の当たりにしてからです。関係者は即座に前言を撤回しました。しかし、この全社的な認識不足と人材流出は、シリーズ開発の分裂を招くことになります。

中氏や安原氏を擁する米国のSTIが正統続編「ソニック2」に着手する一方、日本ではオリジナル版のキャラクターデザイナーである大島直人氏が、当初続編として企画された別のプロジェクト(後の「ソニックCD」)を進めることになりました。日米双方とも、当時はまだこのIPの持つポテンシャルを正確には把握できていなかったのです。

中山体制の猛烈なプレッシャーと功罪

当時のセガを率いた中山隼雄社長の強烈なリーダーシップについても、サーニー氏は言及しています。彼は自身のキャリアを振り返り、「アタリ社は素晴らしかったが、セガは困難だった」と述べ、その環境を「Brutal(容赦ない、過酷きわまるもの)」と表現しました。

中山氏の信念は「プレッシャーこそがダイヤモンドを作る」。つまり、圧力こそが良い成果を生むという考えのもと、スタッフに対して徹底的な成果主義と重圧を課すスタイルでした。

「セガに入社して1ヶ月で、私はコーヒーを飲むのをやめなければなりませんでした。胃痛がひどすぎたからです。そしてセガを退社した1ヶ月後、またコーヒーが飲めるようになりました」

STIの立ち上げ時も、厳しい要求は続きました。予算管理や人材確保、ビザ手続きに奔走する最中、「まだ10万ドルしか使っていないのに、なぜゲームが完成していないのか」と問い詰められたといいます。当時はゲーム制作に20万〜30万ドルが必要になりつつある時代でした。それでも中山氏は、あらゆる手段でスタッフにプレッシャーをかけ続けたのです。

「セガを離れることは、私にとって非常に健康的な決断でした」。7年間という在籍期間は、彼にとって限界とも言える長さだったようです。

とはいえ、サーニー氏は中山氏を単なる「厳しい上司」として否定はしません。「中山さんは素晴らしい人物でした。誰よりもゲームビジネスを理解しており、セガのアーケード事業の成功は彼の手腕によるものです」と、その功績を高く評価しています。実際、退社後も良好な関係を維持し、共に食事をしながら業界について語り合う間柄だったといいます。

現代に通じる業界への教訓

マーク・サーニー氏の証言は、ゲーム業界が「家内制手工業」から「巨大エンターテインメント産業」へと脱皮する過渡期の痛みを鮮明に映し出しています。クリエイターへの適切な対価、リソース管理の難しさ、経営陣と現場の意識の乖離といった課題は、形を変えて現代の開発現場にも通じる普遍的なテーマです。

セガを世界的ブランドへ押し上げた「ソニック」。その背景には、クリエイターの苦悩、日米の企業文化の衝突、そして強烈なリーダーシップがありました。これらの歴史的文脈は、現代のゲーム産業を俯瞰する上でも重要な視点を提供してくれます。

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情報元:Eurogamer

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